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bravesoftの
プロフェッショナル社員

社員紹介vol.6 水谷 浩明

水谷の履歴書

水谷浩明。穏やかな雰囲気で人当たりの良い水谷は上下部署関係なく社内外から慕われている。そんな水谷のあだ名は「みっちー」。
  • 1987年9月 愛知県春日井市にて生誕
  • 1994年4月 鷹来小学校 入学
  • 2000年4月 鷹来中学校 入学
  • 2003年4月 春日井高校 入学
  • 2006年4月 名古屋大学 工学部 電気電子情報工学科 入学
  • 2010年4月 名古屋大学大学院 情報科学研究科 入学
  • 2012年4月 愛知県大手SIer企業に入社
  • 2015年1月 bravesoft株式会社入社 システム事業開発部配属
  • 2015年4月 チーフエンジニア に就任
  • 2015年7月 bravesoft2015年度上期 新人賞を受賞
  • 2016年1月 自社事業(BtoC)をメインで行う事業部に異動 以降 自社事業とEXTを兼任で勤務
  • 2019年1月 EXTチームが技術戦略本部に変更し、専任メンバーに就任
  • 2019年7月 技術戦略本部 副部長に就任
  • 2020年4月 eventosUNIT Product Development事業部に異動

 

水谷の流儀

はじめに

「最強のものづくり集団となり、挑戦に溢れる新しい時代を創る」
これはbravesoftが掲げるビジョンであるが、“”《Unicode Characters: Double Quatation Marks》の定義は抽象的で難しく、社外の方に説明するのが若干難しい実情はある。
しかしながら、このフレーズがもたらす得体の知れないワクワク感に魅力を感じる社員も多く、筆者もその1人である。

今回プロフェッショナル社員として紹介する水谷は、bravesoftのチーフエンジニアとして、そんな“ものづくり集団”を牽引する存在である。
水谷は声が大きいわけではないし、外見が目立つわけでもないし、会議などでイニシアチブをとるタイプの人間ではないが、技術関連で困った時、社内メンバーのほとんどが「まずは水谷さんに聞こう」と共通認識を持つ位に、技術に対して造詣が深く、社内でも一目置かれた存在になっている。

今回、水谷がbravesoftにエンジニアとして入社して活躍した軌跡と、これまでの過去に積み重ねた過去の経歴を紹介するが、その中で一貫して水谷が語っていることは「ものづくりは楽しい」と言うこと。
これから紹介する本記事を読んだ一人でも多くの方がものづくりの楽しさを感じ、「最強のものづくり集団」を目指す弊社のビジョンに賛同して頂ければ幸甚である。

ものづくりに携わってきた人生について目を輝かせて語る水谷。最近のマイブームはゲーム「どうぶつの森」だそう。

RPGツクールで “ゲームを創ること” にのめり込みましたね

1987年9月、愛知県春日井市で水谷は生を受けた。建築関係の仕事をする父親と、薬剤師である母、5歳下の弟の4人家族。真面目な両親と仲の良い弟、何不自由ない環境で水谷は育った。
幼稚園の頃の夢はパン屋さんになること。その頃に両親とパンを作っていた思い出があり、その延長線上でパン屋さんの仕事に就くことに憧れた。
昔から何かを作ることが好きだった。

小学校は地元・春日井市にある鷹来小学校に入学。
幼少期から水谷は勉強が得意であり、自身も勉強することが好きであり、この頃は周りの友人にこのようなあだ名で呼ばれていた。

「当時のあだ名は“天才みっちゃん”でしたね(笑)」

周りの友人達は当時も今も流行している少年ジャンプを読んでいたが、それよりは歴史の偉人などの伝記を描いた漫画を好む、そんな水谷を“天才”と周りの友人は形容したが、勉強一辺倒のいわゆる「真面目くん」ではなく、友達と空き地で秘密基地を作ったり、日が暮れるまで友人と遊ぶ、どこにでもいるようなそんな少年だった。
小学校高学年になると、クラスの学級委員長や図書委員長を努めたが、自分から立候補するのではなく、いつも周りから推薦されていた。そんな水谷の小学校時代の夢は宇宙飛行士になること。
漠然とではあったが、未知なる宇宙に憧れを抱いていた。

中学校は同じく春日井市にある鷹来中学校に進学。

小学校時代に引き続き勉強に熱心に取り組み、成績は常に学年でも1桁の順位をキープ。校内1位に輝くこともあった。
部活動は卓球部に所属していたが、卓球部自体が活動をあまり行っていないルーズな部活だったため、学校から帰って来てはゲームにのめり込み、放課後は友達とテレビゲームをして過ごし、家では親に買ってもらったWindows98のゲームで遊ぶ、そのようなゲーム中心の中学校生活を送っていた結果、多くの子供達が思い描くように、将来の夢が「ゲームプログラマー」になっていた。

ゲームをやっていくうちに「ゲーム作りそのもの」に興味を持つようになった。

高校受験は春日井市内でも1番の進学校・春日井高校に入学。
中学時代に引き続き卓球部に所属したが、高校時代の卓球部は真剣に部活動を行っており、それなりに体育会系の洗礼も味わいながら、中学校同様ゲームに明け暮れ、友達と「パワプロ」をすることが日課だった。

そしてこの頃、友達と既成のゲームで盛り上がる以外にも、水谷が熱中していた事がある。

「この頃は“PRGツクール”にハマっていましたね。敵の魔王がいて、その魔王から世界を守るようなよくある内容のゲームを作っていましたが、それが凄く楽しかった」

勧善懲悪の仮想世界を創造し、自分で地図や街を作り、敵味方のキャラクターを配置したりする初めての「ものづくり」。ゲーム自体は数時間でクリアできる簡単なゲームだったが、実際に簡易的にゲームクリエイトを経験し、中学校時代に萌芽したゲームプログラマーになりたいという夢はより膨らみ、大学進学について真剣に考え始め、高校時代も継続して成績が良かった水谷は、愛知県でNo.1、また日本でも屈指の名門大学「名古屋大学」の進学を志す。

「受験勉強は塾とか予備校は行かず、進研ゼミ一本でしたね」

周りの同級生は塾や予備校で勉強していたが、周りには影響されず「進研ゼミ」一本で机に向き合い勉強を進めた。後日談として周りにその話をすると驚かれれたが、普段から勉強する習慣が身についており、将来の目標像が明確であった水谷にとって、一人で勉強する事は当たり前のことだった。
そのような精神面の強さは高校時代から自然と培われたものであった。

そうして水谷は大学受験に現役合格し、晴れて名古屋大学の学生となった。専攻は工学部電子情報工学科を選んだ。
授業ではサンプルプログラムの作成や、Javaの文法を学ぶなどの座学を中心に行なっていたが、それより勉強になったのは大学から紹介されるプログラミングのアルバイトであった。
色々な会社のプログラミングの案件を紹介され、時給は3〜4,000円と大学生にしては高給。給料の良さと、プログラミングを実践できることに魅力を感じ、外国人向けの日本語勉強サイトの運用・保守を担当していたが、大学で座って学ぶ授業より、実戦形式のこのアルバイトの方が勉強になり、覚える事が多かったと当時を振り返る。

そして水谷はアルバイトでのプログラミングに加え、この頃から本格的に「自分でやりたいこと」のプログラミングを勉強を開始する。
本を買って勉強し、まだスマホ普及前だった当時、ガラケー向けのアプリを作ってリリースした。「アナグラム」「ブロック崩し」「シューティングゲーム」などの作品を独学で学んだプログラミングで世にリリースした。そのうちの1作はゲームアプリサイトで1位に輝くこともあった。実際に広告収入、マネタイズもこの頃から行なっていた。

そうしてサークルなどにも入らず、プログラミングの勉強に没頭した。

そして大学院へ進学し、ソフトウェア検証を研究をしたのち就職活動を始めたが、ここで今まで順調だった水谷の人生に初めて試練が訪れる。

「就活は震災の影響で全然うまく行かなかったですね」

水谷の世代の大学生が就職活動を行なっていた2011年春、同年3月11日に発生した東日本大震災と重なるという不運が訪れ、入社して働きたいとエントリーしていた東京の企業への就職活動は軒並み中止となってしまった。こんなはずではないと思いつつ、就職活動はうまく進まず、最終的に就職が決まったのは同年8月。志望していた東京の企業の内定は取れず、不完全燃焼のまま地元のSIer企業に就職する道を選んだ。

社内のゲーム大会にて。大好きなゲームの前ではついつい姿勢が前のめりになる。

アプリ開発の仕事を行い、もっとアプリを作りたいと飢えるようになった

そうして水谷は大学卒業後、地元の大手SIer系企業に就職した。
入社後はルーターの設定や配線整備など、所謂「インフラ系」の仕事を担当していた。
当初思い描いていた希望は、プログラミングで製品・サービスの開発をすることだったが希望は叶わず、仕事でプログラミングをする機会は無く、フラストレーションを抱えながら毎日を送っていた。

そんな水谷に転機が訪れたのは入社3年目だった。プログラミングを行う部署に異動になり、スマホアプリの開発に携わる機会が訪れた。愛知でも有名なアミューズメントパークの公式アプリの開発の一部分を担当したが、スマホアプリを作る事は本当に楽しくて、この頃から趣味で土日もAndroidアプリを作り始めた。

「前職ではビジネスマナーを色々と学べましたし、インフラ関連の業務を覚えられた事はとても財産になっているので本当に感謝していますが、やっぱりアプリをもっと作りたいという思いがあって転職を考えましたね」

転職先で求めていた条件は第1に「スマホアプリが作れること」、第2に「自分の意見が通せること」。この条件の延長線上にある会社こそが「ベンチャー企業であり、スマホアプリを事業としている会社」であり、それが転職活動の軸となった。

bravesoftを知ったきっかけはたまたまだった。

転職サイトでたまたま目に入って、「気になる」ボタンを押したら当時の受託部門の部長から連絡がきてそのまま面接へ。

「面接の第一印象は、“雑だな”という印象でしたね。本当に会社の面接なのかと(笑)」

地盤産業で堅かった前職と比較し、当時今よりも規模が小さかった2014年当時のbravesoftには風土やカルチャーに乖離があり、カルチャーショックを受けたが、その良い意味で会社らしくない雰囲気に、仲良くみんなでワイワイやっているサークルのような印象を覚えた。

結果として面接用に色々と受け答えの準備もしたが、終始雑談で終わり、気がつくと内定を貰えていた。

前職と比較したときの「緩さ」を見て、当時のbravesoftに不安を覚えなかったかと言うと嘘にはなるが、水谷が転職活動で求めていた「スマホアプリが作れること」「自分の意見を通せる事」は実現できるであろうと、そして何より自分が生き生きと働けそうと思い、「ここにしよう」と決めた。

過去最高の品質評価・チーフ就任・新人賞…順風満帆なbravesoft1年目

そして2015年1月、水谷はbravesoftに入社したが、その頃水谷がbravesoftに入社する際の期待は大きかった。

「入社前から“すごい人が来る”とか言われてたみたいで、周りからの期待がすごく高くてやり難かったですね(笑)」

その当時をbravesoft代表取締役CEO/CTOである菅澤に確認した所、以下のような回答が返ってきた。
「そうだったかはあまり覚えてないんだけど(笑)ただ、国立大の大学院卒のエンジニアが来てくれる事になって、“つよつよ感”は感じていたかも」

入社当初の配属は受託開発を行なっている事業部で、初めに任せられた仕事はスマホアプリのレビューサイトのAndroidアプリ化。

前職でのアプリ開発においては一部のアプリ開発を担当していたが、bravesoftではいきなり開発のメイン担当。モチベーションは一気に上がった。

しかし、いざメイン担当として開発に取り掛かると、前職で一エンジニアとして開発を行なっていた経験や、自分が趣味で作っていたスマホアプリの開発と、お客様からお金を貰ってアプリをメイン担当として作成する「実戦」は全然違うということを痛感した。

また、当時のbravesoftはプロジェクトマネージャーやディレクターが充足しておらず、デザインの打ち合わせやお客様との調整も行う必要があり、単にプログラミングを行えば良いわけではないことをbravesoftに入社してから経験した。

初めての体験で苦労の連続ではあったが、水谷は見事に最初の案件をやり遂げた。
担当案件を問題なく納品し、お客様からも品質が良かったと非常に褒められた。
後に同僚から聞いた話だが、それまでのbravesoftの中で一番お客様が褒めてくれたプロジェクトだったとの事で、その賛辞は誇らしくあり、自信にも繋がった。

以降も水谷は開発に携わる中でお客様と社内の信頼を勝ち取っていき、
2015年4月、入社してわずか3ヶ月でチーフエンジニアに昇進する。

「突然、当時の上司に呼ばれて”今日からチーフエンジニア
ね”と告げられましたね。急でビックリしました(笑)」

当時も今もbravesoftは完全実力主義。過去に紹介した清田も入社2ヶ月で事業部長になっているので、実力がある社員は直ぐにでも高いハードル、広い裁量を与えられる。

そうして順調にステップアップしているようにみえた水谷だが、もちろん苦労もあった。
中でもこれまでに経験した事のないオフショア開発には戸惑い、コミュニケーションに乖離がありお客様からは大目玉を喰らい、休日も連勤して対応するようなこともあった。

しかし、こうした経験も水谷の力になり、結果として入社半年後、2015年上期に新人賞を受賞する。

「まさか自分が選ばれると思ってませんでしたし、理由は今でもあまり分かってないです(笑)」

謙虚な姿勢は変わらずであるが、周囲は確かに水谷の実力を認めていた。

そうして前職時代の経験を買われて、入社半年後の7月からは社内のインフラ部門を担当する全社横断部門「EXTチーム(今の技術戦略本部の前身)」も任せられ、受託開発部門と社内インフラ部門を並行に行なっていたが、そこでもこれまでの経験や知見を遺憾無く発揮し、入社1年でbravesoftにとって水谷は必要不可欠な存在になっていた。

そして入社1年が経った2015年末、水谷に新たな挑戦の機会が訪れた。
「来年から会社の自社事業(BtoCアプリ)に力を貸して欲しい」

bokete(ボケて)のストア評価向上と、HONNEの収益向上を達成

bravesoftのみならず、どこの会社もそうであるが、スマホアプリのBtoC事業は非常に難しい。
「LINE(ライン)」や「mercari(メルカリ)」など、今では全国民に親しまれているBtoCアプリも存在するが、そうした成功した例は希有であり、これまでに多くのBtoCアプリが世の中に登場しては淘汰されていく、まさに一攫千金の世界であり、ToCアプリと言う領域に踏み出すのを躊躇する会社は多い。

それでもbravesoftはToCアプリに挑戦している。それは企業理念にもある「楽しむ」と言う事に起因し、受託開発だけを行なう選択肢もあるし、むしろ受託開発に一本化した方が安定収益を確保できる実情もあるが、やはり夢を見たいのでbravesoftは今尚BtoC事業に挑戦している。
そうした文化を筆者である私も誇りに思っている。

そんな水谷に対し、菅澤は当時このような期待をしていた。
「技術以外のサービスの為に必要な改善などにも気が効くところがあったのと、前向きでワイワイやる姿勢が“bokete(ボケて)“や”HONNE-ホンネ-“など、エンタメ系にもマッチすると感じた」

そうしてBtoC事業を任された水谷にプロダクト毎に色々と振り返って貰った。

「一番最初に担当したのは“bokete(ボケて)”でしたが、大変でしたが色々と楽しかったですね」

bravesoftの名前は知らなくても「bokete(ボケて)」を知っている人は多い。2020年4月現在、600万ダウンロードを記録しているbravesoftを代表するエンターテイメントアプリであるが、水谷はbokete(ボケて)のiOS
/ Android両方の開発を担当した。

bokete(ボケて)は共同事業であり、運用会社などが存在しbravesoftはアプリ開発部門のみを行なっている。その為に急な仕様変更なども多く、苦労した事も多かったが、その中でiOSとAndroidのリプレイスを水谷主導で行い、ストアレビューの評価が格段に上がったことは水谷の自信にも繋がっている。

そんなbokete(ボケて)プロジェクトチームは、それこそ水谷がbravesoft入社前に想像していた「サークル」のような形で、プロジェクト合宿をハワイで行うなど、楽しく皆でプロダクトを創り上げていく事は楽しかった。

「”HONNE-ホンネ-“は一番愛を持っていたプロダクトでしたね」

HONNE-ホンネ-は異動後から後に部署を離れるまで、ずっと手掛けていたプロダクトだっただけに水谷にとって思い入れは深い。
基本的にはアプリ開発がメインではあったが、開発だけではなく、企画にも口を出してプロダクトのグロースに貢献した。広告の管理や広告会社のやりとりも行い、アプリの広告収益を格段に伸ばす事にも成功できたし、その内容はインタビューとして記事にもなった。
参考:https://employment.en-japan.com/engineerhub/entry/2018/07/10/110000

更に水谷がHONNE-ホンネ-で手掛けた内容においては、当時水谷が熱中していた「機械学習」を取り入れて、ユーザーの投稿を機械学習させて文章を自動的に生成し投稿するbotを作成した。
現在はサーバー負荷の関係で終了しているが、時にユニークな文章でHONNE-ホンネ-を盛り上げるため、ユーザーからの評価は非常に高かった。
自社アプリに自分が興味がある内容を取り入れ、それが実際に使用するユーザーに評価される事はエンジニアとしての本懐であろう。

そんなHONNE-ホンネ-であるが苦労したエピソードも多い。HONNEを前任者から引き継いだ際、ソースコードが整理されておらず様々な不具合が生じていた。そこで作り直しにかかったが、通常2ヶ月かかる工程において与えられた時間はわずか1ヶ月と、非常に短い納期の中での開発となった。正直きつい部分もあったが、開発に集中できる環境を作る、実装に時間がかかる部分はサードパーティ製のライブラリを使うなど工夫をし、なんとか終わらせる事ができた。
この当時、水谷に技術的相談をする人も多かったが、この時期は「水谷相談タイム」が一時的に作られ、その時間以外は全てHONNEの開発に集中できるような取り組みを行ったほどである。
また、厳しい開発期間であっても「タップするとアニメーションするいいねボタン」「不快な画像を見ないようにするフィルター」などUXの改善についても併せて実現させた。このように苦労してきた経験も力になっていると当時を振り返る。

ボケ犬と共に写真に写る水谷。開発話と自社プロダクトへの愛が止まらない。

Apple WatchからARアプリ企画 〜 エンジニアの育成に向けて

「bokete(ボケて)」「HONNE-ホンネ」は既に存在していたアプリを水谷が手掛けた形であったが、水谷がゼロから創り上げたアプリも存在する。

「LiarBeatsは、新人賞の景品がApple
Watchだったので、これを使って面白いものを作れないかなと思ったのがきっかけでしたね」

LiarBeatsはbravesoftでも異質な「嘘発見機」アプリ。
Apple Watchの機能の一つである心拍数の計測と連携し、質問をする事で「動揺」した心拍数より嘘を見抜くと言うエンターテイメントアプリではあり、一見誰でも思いつきそうなサービスではあるが行うは難し。

当時、Apple
Watchを使ったアプリがあまり存在しなかったため参考にできるものがなく、実装はトライ&エラーで作り上げていった。おかげでApple
Watchとのデータ連携について学べた事は自分にとって大きなプラスとなった。

肝心の「精度」の部分は然程上がらなかったのでジョークアプリとして提供したが、結果的にはYouTuberの方に取り上げて頂き、ふとしたきっかけで思いついた事から始まったアプリではあったが、しっかりとbravesoftの実績として名を残せている。

「ケチャマヨは“ARを使って何か作ろう!”と周りのエンジニアで盛り上がって作りました」

ARケチャマヨは仮想空間で「ケチャップ(赤)」と「マヨネーズ(白)」の陣営に分かれ、多くの陣営を自分の色で染めると言うエンターテイメントアプリであり、エンジニア内の勉強会の中で企画したのが切っ掛けとなった。
最終的に企画をまとめ、菅澤社長に提案して承認をもらい、エンジニア3名で千葉に一週間合宿に行って作りあげた。

ARkitを使うのが初めてであった点や、Bluetoothの同期のタイミングを揃えることや同期を継続すること、リアルタイムでお互いのデータを共有すること、更には「ケチャップを塗るという表現」をアプリ上で実現する事など、技術要件が難しい事が多く、完成までは非常に苦戦した。
何個もプロトタイプを作り、トライ&エラーを繰り返したのち、納得するものに作り上げていった。
ただ、そうして難産だったサービスを提供した事を水谷はこのように振り返る。

「作っていて本当に楽しかったですね」

そして2016年〜2018年の3年間で自社事業の礎を築いた水谷は、2019年からは技術戦略本部に異動し、社内のインフラ整備やネットワーク環境改善、また勉強会の開催や、自分が主催となるランチ企画も開催し、週に一度4〜5人の後輩エンジニアを集め、仕事の悩み相談や、技術の情報共有などをしながらなどを行い、チーフエンジニアとして後塵の育成にも力を入れている。
そうして2019年7月には技術戦略本部の副部長にも昇格した。

「副部長に任命されたのは、エンジニアだけれどもマネジメントも期待されていると思っています」

技術戦略本部では今後、技術情報の発信や会社の技術的方針を定める事が求められていく。
例えば、使用言語やフレームワークの統一など、まだまだ水谷が客観的に見てbravesoftのエンジニアのレベルは自分も含めて決して高くなく、まだまだやらなければならない課題は山積みである。そのための基盤作りや人材育成を水谷が主導となり、技術戦略本部で行なっていきたい。

そして2020年からは技術戦略本部に加え、eventosUNIT
プロダクトデベロップメント事業部も兼任している。
eventosチームではアプリの開発を担当したのちに、現在はサーバーを担当している。これまではアプリ開発をメインで行なっていたが、将来的にサーバーのリーダー的ポジションも見据えて、現在鋭意勉強中であるが、2019年の1年間は開発より育成メインで行なっていただけに、今の業務をこのように語る。

「やはりアプリ開発に携わるのは本当に楽しいですね」

最後に

最後に、bravesoftに入社して5年半、「受託開発」「ToC自社事業」「ToB自社事業」と畑違いの3部門でエンジニアとして濃い時間を過ごしてきた水谷に、これからのアプリ業界について聞いてみた所、明確な答えが返ってきた。

「リアル×アプリというbravesoftの方針は間違っていないと思っていますし、これからは、自分一人で完結するのではなく、周りの人と繋がれるようなアプリが需要がでてくると思います。ちょうど今、新型コロナウイルスの影響で人と人とのオンライン上での繋がりが求められているからこそ、アプリの力で人の繋がりの輪を作れたら良いなと思います」

そんな水谷を菅澤はこのように評価する。
「ちょくちょく趣味でアプリを作ってきたり、“つくる楽しみ”をしっかり持っている面と、ビジネス面も疎かにしないバランス感がとても良いと思ってるので、対外的なアピールとか、思いつきで作っちゃうプロダクトなどもっと攻めて欲しい」

一貫して自他ともに認める真面目で勤勉な人生を送ってきた水谷。
優等生という言葉でまとめてしまえばそれまでだが、その裏では常に自ら勉強し、挑戦し、壁を突破してきた過去があった。
そんな高い自己成長意欲とタフな精神力、そして断続する力こそが水谷のエンジニアとしての成長の源にあるが、何よりも水谷がインタビューで首尾一貫して語っていた事は冒頭でも触れたが「ものづくりは楽しい」と言うこと。

文中でも紹介した通り、bravesoftの企業理念の一つに「楽しむ」と言う理念がある。
仕事を「与えられたもの」「やらなければならないもの」と捉えるのではなく、「創るもの」「やりたいもの」と置き換えるだけで人生は180度違ったものになる。

水谷はこれまでにbravesoftで与えられた受託開発部門では品質向上に努め、与えられたToC事業ではストア評価や収益向上、機械学習の導入などを行い、与えられたToB事業においてもリーダーを目指すなど、与えられた業務を行うだけではなく、プラスアルファを自分から生み出し、結果として成功につながり、評価に繋がり、仕事を楽しんでいる。

これからも、水谷がこれまでの楽しかったと語る経験の延長線上に今の実績や職責があり、そしてこれから刺激に溢れる楽しい道が続いていくのであろう。

これを見た読者の方も、今与えられている仕事をただこなすだけではなく、その中での楽しさを見出して、水谷のように「人生を楽しいもの」にして欲しいと言う思いを馳せて、本記事の結びとさせて頂く。

「自分は今、チーフエンジニアという立場がある以上、やはり周りのエンジニアのお手本でありたいと思います。広いアンテナを張って情報を仕入れて発信していく事は継続していきたいですし、開発だけではなく製品自体を見れるエンジニアになりたいと思っています。bravesoftのエンジニアには作って終わりのエンジニアではいて欲しくないと思っているので、もっと広い世界を見て、ハングリー精神を持って世界と戦っていって欲しいし、そうした仲間と一緒に働いて行きたいですね。」

ものづくりの楽しさに魅せられた水谷は、社内のエンジニア達をリードする存在として、今日も技術とともに成長を続ける。

記)

水谷の一冊

リーダブルコード ―より良いコードを書くためのシンプルで実践的なテクニック | Dustin Boswell、Trevor Foucher

エンジニア達の間で圧倒的名著として知られている、読みやすいコードを書くための技術がまとめらている一冊です。 複数人での開発、もしくは開発者以外が改修する際にはある程度コーディング規約が必要になりますが、そういった際にどのようなコードを書けば良いのかの指標になります。 難しい技術、用語は使われていないので初心者であっても読みやすいです。会社にあるので、コロナウイルスによる自粛が明け出社できるようになったら社内のエンジニア達にはぜひとも読んで欲しい一冊です。