bravesoftの
プロフェッショナル社員
社員紹介vol.5 村山 拓平
村山の履歴書
- 1987年2月 山形県山形市にて生誕
- 1993年4月 山形市立第五小学校 入学
- 1999年4月 山形第一中学校 入学
- 2002年4月 山形学院高等学校 入学
- 2002年10月 同校 退学後、職を転々とする
- 2007年4月 東京での生活を開始する
- 2009年4月 山形に帰郷し、内装業の仕事に従事
- 2011年4月 東京に再上京し、東京探偵事務所 入社
- 2012年7月 WEBサイト運営会社入社
- 2017年3月 bravesoft株式会社 入社
- 2017年7月 GBS事業部(現:eventosUNIT)異動、ディレクターとして従事
- 2019年12月 2019年度下期 Most braver Personに選出
村山の流儀
はじめに
1990年代後半を代表するパンクロックバンド「Hi-STANDARD(ハイスタンダード)」の代表曲に“GROWING UP”と言う曲がある。要約すると「主人公が成長する為に愛する街・仲間を捨てて旅立つ」と言う意味を持つ歌詞の曲であり、誰もが経験した旅立ちについて語るセンチメンタルな歌詞とその疾走感のあるメロディで構成されるこの曲はファンの中でも押し並べて人気が高い。筆者もこの曲がHi-STANDARDで一番好きであると言っても過言では無い。
そんなこの歌詞の主人公のように自分の成功に向けて、愛する地元を2度離れて、1度は失敗して挫折を味わうも2度目の状況で成功し、実際に成長する事ができた、そんな社員・村山を紹介したい。
村山は容姿端正であり、明朗活発で誰とでも仲良くできる存在で、存在するだけで場の雰囲気を明るくし、上司からも部下からも慕われており、昨年末はbravesoftで最も優れた社員に贈られるM.B.Pにも選出。プライベートにおいても趣味のゴルフやグランピングを楽しみ、社内でも一目置かれる「公私共に充実させたビジネスパーソン」であるが、村山が苦労をせずに運や才能、センスでここまで称賛される存在になったかというと決してそうではなく、これまでの人生は波乱万丈な人生であり、どん底も経験した事もあった。
そんな村山がこれまでの人生に於いて、成功を手にする為に行った挑戦、覚悟、努力があったのか、今回はそんな村山の流儀を紹介したい。
“お前たちは授業を受けなくていい”と机を分断されましたね(笑)
1987年2月、山形県山形市の一軒家で村山は生を受けた。生家は父方の祖父母と、サラリーマンの父親、カルチャースクールやボランティアなど多趣味な母親、3歳上の姉、2歳上の兄との7人家族。賑やかで笑いが絶えない家庭だった。
小さい頃は末っ子というのもあり周囲に甘やかされて育ったが、母親は躾には厳しかった。テレビゲームにおいても1日30分を上限というルールが徹底されていたが、当時の村山にとっての世界は家族が全て。特に違和感なくそのルールに従い、幼少期は楽しく過ごしていた。どちらかというと父親より母親との仲が良い、そんな子供だった。
小学校は地元の山形市立第五小学校へ入学。
低学年の頃は水泳少年団に入るが、小学3年生からは2つ上の兄の影響もあり小学校の野球少年団に入団。当時好きだった球団はジャイアンツ。放課後、日が暮れるまで白球を追いかけて、家でもTV中継のナイターに釘付け。野球漬けの毎日を過ごしていた。
この頃も、母親の方針で当時周りで流行っていたプレイステーションやポケットモンスターは買って貰えずクラスメイトの話題についていけない事もあったが、それでも小学校当時は勉強もできて、スポーツもできるクラスでも中心的存在であり、充実した小学校時代を過ごした。
中学校は山形第一中学校に入学。
山形第一中学校は地域の複数の小学校からの生徒が集まり、1学年300人くらいの中学校の山形という地方都市と考えても大規模なマンモス中学校であり、色々な生徒が集まってきたが、その中には当然、悪い生徒もいた。
中学校でも当たり前の様に野球部に入部し、小学校に引き続き放課後はグラウンドで汗をかいていたが、その頃の野球部には不真面目な、ヤンチャな部員が多く集まっていた。
放課後に野球の練習をするよりも、部員の家に集まって遊ぶ頻度が多くなり、中学2年生の頃には野球よりも遊びの方が楽しくなってしまい、気付けば“不良グループ”の一員となっていた。
引きずられる様に学校の勉強も放棄する様になってしまった。この頃から学校もサボる様になったので、授業も真剣に聞かないし、宿題をしないから勉強についていけない。
「当時の担任から“お前たちは授業を受けなくて良い”と机を分断されて…俺らのグループは無視されて授業を進めてましたね(笑)」
“夜回り先生”でお馴染みの水谷修先生の著書の中に「元々根が真面目な子ほど、真面目に不良の道に進んでしまう」と言う一節がある。村山を知るbravesoftの従業員はみんな「真面目」と村山を評する。村山も根が真面目であるが故に、純粋に不良の道に足を踏み入れてしまった。
そして中学校を卒業し、高校に進学するか迷ったが、周りの悪友達も“高校に行く”と言うのでそこまで深く考えずに地元の山形学院高等学校 調理科に進学。
家から近かった事と、どうせ行くなら手に職をつけたかったと言う理由で調理の道を当時選択したが、長く続かなかった。
高校時代も中学時代の悪友と引き続き遊んでおり、さらには当時、山形駅前のゲームセンター、お好み焼き屋が溜まり場であり、そこには他校や学年も違う同じような連中が集っていた。
そうしてそこで知り合った友達と遊ぶのが楽しくなり、髪も染め、バイクを乗り回し、家にもなかなか帰らなくなり、3ヶ月くらいで高校には行かなくなり、籍だけは残していたがその年の10月で自主退学。
何も得る事の無い高校生活は半年で終了した。
「そして高校辞めてやる事ないので…一緒に遊んでた奴の紹介で現場の仕事をやってましたね」
そうして高校を退学した村山は土木の現場作業の仕事を始める。いわゆる基礎工事の仕事であり、住宅・ビルの現場で穴掘り、砂利敷き、コンクリート敷きなどを行っていたが、この頃の仕事観もルーズであり、気分で休んだりして適当に働いていた。
仕事が終わったら友達と遊ぶのは変わらず、むしろ友達と遊ぶために必要な金を稼ぐ為だけに仕事をして、金がある時は仕事をしない。
そうした一瞬の感情で行動する、10代後半の村山はそんな怠惰で無益な日々を送っていた。
“ビッグになろう”と決めて上京する事にしたんです
そうした刹那的な生活を5年程過ごしていた村山であったが、少しずつ心境に変化が生まれてきた。
「“このまま人生を過ごして、俺はこの先どうなるんだろう?”と考えることが増えたんです。少しだけ将来が不安になってきて」
当時、稼いだ金は全て使ってしまう生活を送っていた村山にはもちろん貯金も無く、技能も資格も無かった。友達の誘いには断れず…また朝まで遊んで次の日の仕事も休む。そんな無益な日々を過ごしてた村山に対して周りの人間がこうアドバイスした。
「やっぱ意志が弱く友達と遊んでしまうので“環境を変えろ”と言うアドバイスをもらったんです。それで姉ちゃんがいる東京に行くことにしました」
そうして2007年、20歳の頃、何かを変えようと言う思いで村山は東京に上京する。これが村山の1度目の上京であった。
姉の家で一緒に暮らし、その頃は東京でコールセンターや日焼けサロンのアルバイトを掛け持ちして生活していた。家とアルバイト先の往復の繰り返し、友達と遊ぶ時間は無くなり、その代わりに考える時間が増えた。「何かを変えよう」と思って東京に来た村山だったが、東京に来る事が目的になってしまっており、日々のアルバイトをする生活で精一杯、とてもでは無いが何かを変える事ができなかった。
「東京に来てはみたものの…何も掴むことはできなかったですね。“早く山形に帰りたい”と、そればっかり考えてましたね(笑)」
そうして2年間山形を離れて東京で働いてはみたものの、特に何かを得ることは無く、諦めて山形に帰る事にした。
そうして山形に戻った村山であったが、この2年間の山形を離れていた期間、当時の悪友達は成長していた。家庭を持ったり、責任を持ったり、少し今までの印象と違って見えたのを覚えている。
「周りの奴等は不良だったのに成長しているけど、俺は全然成長できてないな…」
焦燥感に駆られたが、それ以上に何をする事もできず、友人の紹介でまた肉体労働、内装業の仕事を始めた。
内装業の仕事は現場によるが毎日朝の7時から夜の17時まで。
オフィス内の間仕切りなど、力仕事中心の仕事ではあったが、良い仲間にも恵まれて楽しい時間を過ごしていて、色々と焦燥感はありながらも与えられた仕事を愚直に続けていた。その頃には遊ぶ事も減り、サボり癖も直り、健康的な生活を送っていた。淡々とではあるが誘惑に負けずしっかりと仕事を継続できるようになったのは東京で働いていた日々の財産であるかも知れない。
結果、働きが評価されて正社員登用の話も貰い、ゆくゆくは独立の道もあると当時勤めていた内装業の社長から暖かい言葉も頂けた。
今まで適当に働いていた村山にとって、初めて信頼を勝ち取り、仕事を評価された瞬間で会った。
「もちろん嬉しかったんですけど、その同時期に一緒に働いていた30代半ばの人の給料を知っちゃうタイミングがあって、その金額が自分の給与額とそんなに変わらなかったんです。この仕事を続けていても、将来が無いなと思ってしまって…やっぱ、せっかくの人生なんで、大きい事をしたいなと思ったんです」
そうして“大きな事をする為には東京に行くしかない”と考えた村山は再度、東京に上京することを決断する。
そして選択した道は“探偵になる”という、一風特異な決断だった。
村山は“リアル桜木花道”でしたね
「探偵になるというのは、元々そんなやりたくて目指した訳では無いんです(笑)そういう話をしていて、もう引っ込みが付かなくなって、目指すことにしました(笑)」
村山は内装業を辞めた翌日、ボストンバッグに数日分の着替えだけ詰めて、とりあえず上京した。「実際に探偵になれなかったどうしよう」など細かい事は考えず、“迷ったら挑戦”というブレイブスピリッツの信念を当時から実践し、東京行きの新幹線に飛び乗った。
上京初日は漫画喫茶に泊り、翌日には住まいとなるシェアハウスの契約を済ませて、住居はなんとかなった。次は仕事。
求人を探したが探偵事務所は求人を出しておらず、東京都に存在する探偵事務所を片っ端から電話することにしたが、「ウチは募集していない」と断られることが殆ど。他には「資格がないとダメ」という理由で断られる事もあったが、地道に再度探偵事務所への電話を続けた。東京中の探偵事務所に、時には間違えて同じ事務所に再度電話をしてしまった。
そうしてその努力、熱意の甲斐があり、1社面接してくれる会社があった。
大きな探偵事務所では無かったが、その事務所が人手が足りなかった背景もあり、とりあえず面接をしてくれた。その面接において村山は得意のプレゼンテーションを活かして内定を獲得し、そうして晴れて村山は探偵見習いとなった。
最初の3ヶ月は研修期間という事で、張り込みの練習やロープレなど、先輩が色々と教えてくれた。先輩の依頼に同行をしたり、シミュレーションで尾行を行ったり…給料は安かったが、新鮮で楽しかった。依頼内容は浮気調査が殆どで、それ以外はポスティングがメインだった。
そうして念願叶って探偵を1年半続けていたが、この1年半で「探偵」という仕事の限界を感じてしまい、探偵の道を断念する事を決断する。
「日本の探偵の地位って凄い低いんです。張り込みも、警察はOKですけど探偵はNGなので通報されたらその場で断念しなければならないし、あとは浮気調査とかも現場の目撃に成功しても、依頼主はもちろん喜ばないんですよね。その辺も辛くて辞める事にしました」
そうして探偵を辞めた村山は次の仕事を探す事となったが、将来を考えた際にやはりこれからはWEB業界に身を置くべきだと考えた。WEBを知らないとダメだと考えた。
未経験で働けるWEB関連会社を探して、取り敢えず一番最初に見つかった会社に応募し、面接まで進んだが、そのWEB運営会社の入社テストで躓いてしまった。
「“あなたが知っているブラウザを書けるだけ書いて下さい”みたいな質問があったんですけど、なんの事か全く分からなかったです(笑)そして結果社員としてはダメだったんですけど、アルバイトだったらOKとの事でしたので、とりあえずその会社に入ってみました」
その会社はナイトレジャー、性風俗店に関するWEBサイトを運営する会社であり、憚られる業界ではあるが特に気にしなかった。未経験であったが、WEB業界のルールや仕事を知る事は楽しかった。そうしてアルバイトで働いていたが働きを評価されて数ヶ月後には正社員登用して貰えた。その会社には村山でも知ってる様な有名な大学を卒業した社員もいたが、そうした大卒社員と肩を並べて働く事は誇らしかった。
当時の同僚は「とにかく最初は何も知らないんだけど、覚えるのが本当に早いんだよね、リアル“桜木花道”」と、国民的アニメ「SLAM DUNK」の主人公で、未経験でバスケを初めて3ヶ月で全国クラスの選手になった主人公と村山を重ねた。
そこから、村山は順当にキャリアを積み重ねていった。
社内で新規に制作するWEBサイトを担当するプロジェクトメンバーとしても選出され、その中でWEBディレクションの業務を色々と経験し、スキルをどんどん身につけていった。やれる事や責任が増える事で給料も増え、当時住んでいたシェアハウスを引き払い東京で一人暮らしをする事もできる様になり、念願のバイクも購入した。社内でSEOに特化した新部署を立ち上げる際にも立候補し、その部署の責任者の大役も任され、主任の地位にまで登り詰めた。
「帰郷した際に、当時の不良仲間に“東京のベンチャー企業で主任になった”と言うと、もう超エリートみたいな扱いを受けますね(笑)俺たちの仲間からこんな出世頭が出たぞ、みたいな」
当時の仲間が自分の成功を祝福してくれたのは純粋に嬉しかった。
頑張って挑戦してみれば、ここまで道は開けるという事を実感した。山形を去る事に決めた、あの日の選択は間違っていなかったと感じた。
新しいものへの果てしなき挑戦
そうして4年余りWEB運営会社での働いていたが、会社が方向転換による規模縮小を行うタイミングで「もうこの会社でこれ以上学ぶ事はない」と考え、ステップアップの為の転職を決意。
転職活動では未経験者では無く「経験者」と言う立場で仕事を探していた矢先、元同僚が勤めている会社から紹介を受け、これまでにやってきた事を活かす事ができると感じ、その会社で働いてみたが、どうも楽しくない。単純に「人」がイマイチで、同僚を好きになれず、熱くなれなかった。
そんな最中、前職のWEB運営会社時代の同僚でもあり、現在この手記を書いている筆者(高瀬)に勧められた事もあり、bravesoft代表取締役の菅澤英司と会食を行う。
そこで菅澤とたわいも無い話をしながら、語るビジョンを聞いて魅力を感じたと村山は述懐する。
「“面白い人だな“と思ったんです。自分より5歳位年上なのに良い意味で幼い、と言うか…そこで魅力を感じて、“やってみるか”と思い、志願しましたね」
bravesoftでは当初は受託開発部門のディレクターを務めた。
入社して間も無く、美容室の顧客管理を行うCMSの要件定義をアサインされたが、仕様も複雑で四苦八苦しつつも、クライアントとコミュニケーションを円滑に取り、信頼を勝ち取りプロジェクトを完了させる。
それと同時に、会社のPRを行う全社横断チーム(現在の広報戦略本部)にも筆者の勧めでアサイン。元々SEOを生業していた経験を活かし、この頃改修を勧めていたコーポレートサイトの受託開発ページのSEO検索順位を1位にする事に成功。
その他、社内イベントなどでも司会を行なったり、積極的に他の社員と交流を行い、徐々に存在感を出していった入社3ヶ月後の2017年7月、下期のスタートを迎えこの時期は多くの人員の配置転換が行われ、村山もeventos事業部に異動する運びとなった。
その際に、村山に求めていた期待値に関して、代表の菅澤はこう述懐する。
「当時、社内イベントを色々と盛り上げてくれていたので、イベントを成功させる力があると感じた。その上でeventech(イベンテック)を体現して欲しいと、タクには当時期待していたね」
そうして何もわからないまま、eventosの異動を命じられたが、当時eventosはまだ作り直す前の状況で、売上はずっと未達、イベントをやっても人が集まらない、仕様にも漏れが多く、炎上も多いと言う燦々たる状態であり、不安も感じたが「そんな部署に自分が異動になったのは、自分が評価されている証」と考え、遮二無二働いた。
当初はその経験の無さから不安視される声も多かったが、これまでの仕事で吸収の速さは証明している通り、順当にeventosの仕様を覚え、ディレクションの仕事も任せられ、eventosで4年連続で採用して頂いている「東京ゲームショウ」のメインディレクターも担当した。結果として炎上させる事もなくプロジェクトを終結。多くの賛辞を頂いた。
筆者も村山と付き合いは長いが、昔から「場の空気を読む」のが上手い。案件において、例えば二者間で揉めていた際などにも、お互いの顔を潰さず、ベストな選択肢を提案・選択する事ができる。その上で自分が主張しなければならない部分では折れないが、引く時は引く事ができる。そうしたバランス感覚は天性のものであるとも思うが、これまでの良くも悪くも色々な人生経験で得た賜物でもあると筆者は考える。
その結果もあってであろうか、2019年下期、bravesoftで最も優れていた社員を全社員投票で決定するM.B.P(Most Braver Person)に文句無しで選出された。
この受賞に際して、2年間同じeventos事業部として、村山の成長を見てきたeventosUNIT統括・清田はこう村山を評価する。
「eventos事業はイベントの特性上、どうしても土壇場になってお客様と揉めたりしてしまう事が多いんだけど、村山の担当する案件は何の問題も起きない事が多く、気になって実際にお客様との打ち合わせに同席すると、天性の人懐っこさや人を惹きつける魅力はさることながら、“お客様のイベントの成功を心から願い、実際に寄り添うところ”ができている印象を持ちました。周りからの信頼も得ているので、2019年のM.B.P受賞は必然だったと思うし、2020年も連続で獲得して欲しいですね」
同様に、菅澤にも今の村山に期待する事を聞いてた所、このような明快な回答を頂いた。
「新しい企画を打ち立てたり、代表作となるようなアプリを作ったりと…今回の受賞に引き続いて、誰もが認める輝ける結果を出して欲しい」
最後に
最後に、村山がbravesoftに入社して得た能力、成長できた点を聞いてみると、答えは直ぐに返ってきた。
「考える力が凄くつきましたね。これまでの人生では、ビジョンとか目標が上から降りてくるだけだったんですけど、bravesoftは合宿などでビジョンや目標をチームのみんなと一緒に考えるので、考える力をつける必要があると感じました。その力をつける為に自主的に学ぶようにもなりましたし、学ぶためのきっかけをどんどん探せるようになりました」
ほんの10年数年は定職にも就かず、怠惰な日々を過ごしていた男が、ここまで成長し、しっかりと現実と向き合い、正しい意見を言える様になった。
当時を見ている両親などは本当に息子の成長を感じているであろう。そんな母親とも最近は仲が良く、先日も両親と東京観光を楽しんだ。
「過去を振り返って一切の後悔はないですね、過去があっての今だと思っているので」
高校を中退し、挫折を味わい、現実を知った村山ではあったが、挑戦するほんの少しの勇気があり、上を目指す気持ちを持ち続けていれば、経験が無くても、学歴がなくても、それがたとえ何歳であったとしても、ビジネスの最前線で活躍する事ができる。
過去を後悔するのではなく、過去の経験を財産として、前を向いていく事は、それはとても難しい事かも知れないが、人生において、何かを始める時に遅すぎる事は無いし、失敗したって人生は何度でもやり直せる。
今現在、挫折を味わった人、何かを諦めた人、何かを始めようとしている人が、この村山のこの流儀を読む事で、ほんの少しでも「挑戦しよう」と言う意識が芽生えて頂き、この文章がそうした人たちの背中を押す切っ掛けになってくれれば幸甚である。
最後に、村山の今の心情を紹介して、結びとさせて頂く。
「今は成果も出せていて仕事がすごい楽しいですが、もっとbravesoft全体を巻き込んで、ワクワクするような挑戦をしていきたいですね。eventosを使ってもっと世の中をワクワクさせる事もできると思ってますし、自分が考えた事や作ったもので世の中に影響を与えたいですね。それが今、自分が仕事として一番やりがいと思っている事です」
村山の一冊
世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」|山口周
ロジカルシンキングを取り上げるビジネス書はとても多いですが、それとは真逆の「直感」や「美意識」の必要性を説く一冊です。 ビジネスでは数字・論理が重要視されますが、ある程度答えの出し方がテンプレ化しており、答えの差別化が出来なくなる未来が目の前に来ている。 その先に求められる能力として「美意識」を取り上げています。 一貫して「美意識」と言うキーワードを軸に話が展開されており、考え方や今まで違和感を感じていた事を次々に言語化してくれた、そんな一冊です。