bravesoftの
プロフェッショナル社員
社員紹介vol.4 王 利艶
王の履歴書
- 2011年10月 bravesoft株式会社 入社
- 2014年1月 開発チーム 副部長就任
- 2015年7月 出産休暇開始
- 2017年5月 復職
- 2018年1月 受託開発部門 中国チームリーダー就任
- 2019年1月 受託開発部門 中国開発事業部長就任
- 2019年7月 受託開発部門 副統括就任
- 2020年4月 bravesoft 大連拠点の総経理就任予定
王の流儀
はじめに
国際労働機構(ILO)の2018年の調査によると、全世界の管理職における女性の割合は全体の27.1%との事であり、管理職の4人に1人以上は女性社員である事が数字から窺えるが、日本国内の企業における女性の管理職の割合はわずか12%であり、管理職の8人に1人以下しかこの国では女性管理職は存在しないようだ。
理由は諸説あるが、やはり女性管理職の数が少ない理由としては、“出産“、“育児”が大きいのではないであろうか。最近では“主夫”、“イクメン”という言葉も昔よりは聞くようになったが、それもまだ一部の話であり、やはりまだこの国は男性中心の社会である。
今回のプロフェッショナル社員紹介では、そんな現在の日本社会において、女性でありながらbravesoftの管理職として活躍する社員・王(おう)を紹介したい。
彼女はbravesoft唯一の女性管理職として、グローバル展開を行う受託開発部門の副統括を務めている傍ら、一児の母として時短勤務を行いつつ、仕事と家庭をしっかりと両立している。
そして更に今春からはbravesoftが新たに立ち上げる大連における中国子会社の総経理(日本で言う代表取締役社長)に就任する事が決まっている。
これまでの人生にてどのような決断や覚悟を持って行動し、社会人としてどのような夢を抱えて、母親としてどのように子供と向き合い、今に至ったかの「王の流儀」を紹介したい。
また、育児と仕事の両立に悩む女性の方にも、是非一読して頂きたい。
好きなものを毎日食べたいから経営者になりたかった(笑)
中国は内モンゴル自治区(内蒙古自治区)の省都フフホトにて王は生を受けた。
フフホトは北京から飛行機で1時間弱、300万人位の人口が住む街で、気温の寒暖差が激しく、王の説明によると「日本で言うところの北海道みたいな土地」との事。
そんな土地で両親と9歳年上の姉の、4人家族で王は育った。
幼少期の王は、母と姉に面倒を見てもらっていたが、当時の王は甘えん坊で泣き虫。自分の思い通りにいかないと泣き喚き、母と姉を困らせた事も多かった。
この頃の王は、母と姉に毎日、家の近くの食品や雑貨品が売っている商店に連れて行ってもらっていた。そのお店には当時の王にとっては数えきれないほどたくさんのお菓子があり、毎日この商店でお菓子を買ってもらう事が、本当に楽しみだった。
しかしながら、まだ幼い王が買って貰えるお菓子は1日1個か2個。まだまだ食べたいお菓子はたくさんあるのに…。そんな王は当時、買い物を終えて店を出る時、よくこう思っていた。
「自分がお店をもったらお菓子を好きなだけ食べられるので、このお店の店長になりたいな」
その時に王が抱いた“決意”は30年余の時を超えて結実するが、それはまだ先の話であるので幼少期に話を戻す。
そうして家族の愛に恵まれた幼少期を経て、小学校に入学。
小学生時代の王が熱中していた事は“外遊び”。学校が終わるとクラスメイトの男女と、かくれんぼ・縄跳び・ボール遊びなど、毎日日が暮れるまで笑っていた。家で1人で遊ぶより、外で友達と遊ぶ方が好きな子供だった。
その中でしっかり勉強も怠らなかった。毎日家に帰って宿題もしており、テストの成績はクラスで2〜3位を常にキープ。クラスの中でも級長を務めており、遊びも学級活動も、常にみんなの中心には王がいた。図らずして日常生活においてリーダーシップをこの時期に身に付けていた。
そして楽しい小学校時代を終えて、王は地元フフホトの中学校に進学するが、小学校時代とは反面、中学校時代は“地味”に過ごした。外で友達を率いて遊ぶ生活から、クラスでは割と静かにしっかりと勉強をする生活にシフトチェンジ。「環境が少し変わって大人になったからだと思う」と当時を述懐する。
高校時代も中学同様で静かに過ごしていたが、大学受験を迎えるにあたり、王の中である葛藤と局面した。受験勉強に意味を見出せなくなったのである。
これまでは学校で与えらえた宿題、テストを当たり前のように提出していたが「このまま勉強を続ける事が本当に自分にとって必要なのか?」「自分のやりたいことは何なのか?」という葛藤の末、王が出した結論は“絵を描くこと”だった。
これまでに絵を描いていた経験もなく、絵を描くことが好きだったわけではない。なんとなく絵を描くことを始めたが、これが面白かった。早く絵を描くことは得意ではなかったが、時間を掛ければどんどん上手になっていき、どんどん絵を描くことに夢中になっていった。
そんな王が大学進学を機に選んだ進路は「インテリアデザイン」。元々はフフホト市内の大学を進学予定としていたが、インテリアを学ぶために建築インテリアの専門である内モンゴル農業大学への進学を決意した。
夢を叶えるため日本に来日し、苦難の日々を超えて
進学した内モンゴル農業大学は魅力溢れる、非常に充実した学び舎であった。
講義で今まで知らなかった色々な知識を教わったり、設計図を作ったり、同期と互いの夢や目標について語れる、非常に楽しい時間であり、この大学に進学して本当に良かったと王は当時を振り返る。
そうして充実した大学生活もあっという間に終盤を迎え、進路を考える時期を迎えた。
学んだ知識を元にフフホトにて就職するという選択肢もあったが、より広い世界で働くためにもっと勉強したいという思いが強くなり、王は大学の先生の薦めなどもあり日本の大学院への進学を希望した。王が大学3年生の頃である。
但し、王はその頃大学の授業で日本語を専攻していた訳でもなく、全く話す事ができなかったので、日本に留学を決めた半年前より日本語学校に通い、必死で語学の勉強も始めた。
「日本語は難しかったですね。今でも“は“と“を”の使い方は難しいですし(笑)ただ、夢の為に頑張りましたね」
流暢な日本語でそう答えた王であるが、計り知れない努力がそこにあったのであろう。同じ漢字圏ではあるものの、“日本語の表現の多さやニュアンスなどは本当に難しい”というのは多くの来日留学生も語る通りであるので、改めて、日本語を覚えて日本企業で働く王を始めとする弊社の外国人社員に頭が下がった次第である。
少し話が脇道に逸れてしまったが、そうして大学を卒業した王は来日する。
当時、親戚が住んでいた家の近くで生活を始めたが、当時はやはり文化の違いに戸惑ったが、やはり一番苦労したのは日本語。
大学院の授業の発表は日本語で行う必要がある。元々人前で話すのは得意な方ではないし、緊張するタイプである王は「日本語でうまく発表できるのか」と思い悩み、発表前日はなかなか眠れなかった。
そんな王が日本語に抵抗が無くなってきたのは、大学時代のアルバイトしていた頃の経験が大きいと振り返る。韓国料理店のキッチンでアルバイトをしていたが、その中で同じアルバイトスタッフと日本語でやり取りする機会が増え、アルバイト仲間と仲良くなる事で抵抗が徐々に無くなっていき、日本語にも日本での生活も徐々に慣れてきた。
日本語への抵抗が無くなる事で授業も楽しくなり、充実した大学院生活を終えようとしていた王は就職に関して考えていた。
当時はリーマン・ショックで全世界的に景気低迷の時代。企業は採用にも消極的になり、王が志望していた「大塚家具」「ニトリ」などと言った家具メーカーに就職することは難しかった。内定取り消しという憂き目も経験した。
“中国に帰って就職すること”も脳裏を過ぎったが、王はそうしなかった。
「このまま日本で何も得ること無く帰国するのは嫌でしたね。日本語もまだまだ上達していないし、手に職が欲しかったので、職種を問わず日本での就職を第一優先にしました」
インテリアデザイナーとしての夢を捨てた訳では無く、少しだけ遠回りをすることを王は決断し、特にジャンルを制限せず就職活動を行い、そこで縁があったIT企業の選考にて、面接担当であった部長の方の面接に魅力を感じ、同社への入社を決意した。
王が日本に来て2年が経過していた。
日本と中国の架け橋を目指して
そうして縁あったIT企業に入社し、半年間はOJTでビジネスマナー・開発言語・仕様書の書き方を教わり、そのあとは即実践。同期と同じプロジェクトにアサインされ、勤怠管理システムを入社して早々に任されたという。開発は未経験だったが、JavaやPHPの言語を教わり、SNSサイトやWEBサイトの開発、データベースの構築なども行った。
この会社でも王は同期に恵まれた。同期は日本語も開発に関して色々教えてくれた。
そして何より、王の面接を担当した直属の部長にも色々社会人の基礎を教わった。
この部長は温かくも厳しい上司であった。
当時王が働いていたこの会社には王の他にも4名の中国人社員がいたが、中国語での会話を禁じた。
そして毎週、日本語の本を読んで感想文を書く課題を課された。王は必死で平日は仕事を行う傍、読書も行い週末の土日を利用して感想文を書いていたが、この経験はかなり力になったと当時を振り返る。
他に、この部長から教わった忘れられない言葉がある。
「“人生は演技”という言葉ですね。怒ったり悲しんだり悩んだりする事もありましたが、そうした感情を表に出さないように、その言葉を聞いて意識するようになりました」
そうして2年間、王は遮二無二働き、徐々に仕事に慣れていった中で、仕事を通じて“自分のやりたい事”が見つかった。プログラミングは楽しくもあったが、難しいという思いも持っており、自分の適性を考えた時に、自分が行いたいことは技術者として腕を磨く事より、日本と中国の両方の文化を知るものとして、そうした技術交流などで”架け橋になること”であると考え、転職を決意した。
部長にも“もう少し頑張って欲しい”と慰留されたが、王の意志は変わらなかった。
そうして中国に開発拠点を設けて、ブリッジエンジニアを募集している会社を探し、偶然検索して見つかったbravesoftに応募したが、その応募理由は“職種”のみで、bravesoftが何をしている会社なのかも正直そこまで分かっていなかった。
それでも王は、当時部署の部長だった中国人社員との面接でその包容力に魅力を感じ、更には代表取締役の菅澤との面接で“何か”を感じ、bravesoftの入社を決意した。
この当時の王の印象について、菅澤はこのように振り返る。
「明るく前向きで、顧客の前にすぐ出ていける印象を持った。あと開発以外にもビジネス全般に興味があり、意欲が高いと感じたね」
当時のbravesoftは20人程度の会社。今なお残る社員は代表の菅澤のみ。前職は250人位の規模の会社だったので入社当時はそのギャップに戸惑ったが、入社後早速、前述の菅澤のコメントにあるように、すぐ顧客とやりとりを行うブリッジエンジニアとして王はあるクライアントにアサインされた。
この頃にアサインされたクライアントーD社は、bravesoftで最も復職前は歴史のあるクライアントで、2020年現在も多くのWEBサイトやアプリの運用保守を任せて頂いているクライアントであるが、こうして仕事を継続して任せて頂けているのは結果としてはこの頃からプロジェクトメンバーとしてアサインされた王の功績が大きい。
そうしてD社とのブリッジエンジニアとしての仕事が始まり、当時は3〜4つのプロジェクトを担当していたが、幸運にも王が担当してすぐに大型のプロジェクトが増えた。急に慌ただしい日々となったが、プロジェクト進行は楽しかった。
しかしながらこの時期に王の頭を悩ませていたのが、オフショア拠点である中国子会社の開発品質と意識の問題。
今でこそ、そうでも無いが、当時はオフショア開発に対する社会的印象は「安かろう・悪かろう」の世界であり、事実としてそのような点は随所にて見受けられた。どうしても日本サイドで求めていた品質や意識の乖離が発生してしまっており、王が依頼した開発も、元々依頼していた仕様通りになっておらず、何故このようになっているのかと中国子会社に毎日問い詰め、困惑していた。
そうして出来上がった内容が仕様通りでは無く、D社の担当部長の方にも怒られ、間に入り苦しい時期を過ごしており、上手くいかない事に対して自分で自分に対して怒っていた。自分に演技はできなかった。
それでも王は持ち前の対人能力の高さや作業の細かさ、更には伝えるべき際には言い難い事もキッチリ伝えるスタンスを継続し、中国子会社においても、担当するD社においても、そしてbravesoft社内でも評価されるようになり、2014年1月に開発チームの副部長に就任する。
そうしてD社との取引をどんどん増やしていき、更には他のプロジェクトもアサインされて、プレイヤーとしてもマネージャーとしても順風満帆に仕事を続けていた王ではあったが、一旦ビジネスの最前線から退くことを選択した。
それは「母親になること」である。
母としての職場復帰
王は2011年に日本で知り合った中国人エンジニア・鄭(てい)と結婚をしており、2014年の年末に子宝を授かり、仕事を離れて育児に専念することを決めた。
仕事に未練がないと言えば嘘になるが、周りの多くの人間が祝福をしてくれた。bravesoftの社員も、クライアントのD社の担当部長の方にも祝福され、安心して仕事を離れて母親になる事を決意。そうして2015年7月より産休休暇に入り、2015年11月に長女となる第一子を出産。
育児は大変だったが、鄭がサポートをしてくれたし、何よりも娘が本当に可愛かった。もちろん今もそうであるが、当時は娘と一緒に生活する事で、毎日癒されていた。
そうして娘が順調に成長をして行ったタイミングで職場復帰を決め、保育園への入園を希望したが昨今の待機児童問題の通り、思っていたより時間は掛かったがようやく受け入れ先の保育園が決まり、2017年5月よりbravesoftへ職場復帰する。
2年ぶりに復帰したbravesoftの雰囲気はやはり大きく変わっていた。
仕事の勘を取り戻すのも勿論ではあるが、知らない社員も増え、制度も変わっており、復帰当初は色々と戸惑った。
そして何より、これまでは時間を意識せずに働いていたが、17時には会社を出て保育園に娘を迎えに行き、仕事と育児を両立する事が大変だった。この頃の王は、娘を迎えに行ってご飯を食べさせて、子供を寝付かせてから残った仕事を片付けるという生活を送っていた。メールの履歴を追うと、深夜の1時や2時を越えていた事もあった。
それでも翌朝には起きて、子供のご飯を作り、保育園に送らなければならない。自分の為の時間は当時、ほとんど存在しなかった。
この頃の日々を王はこのように振り返る。
「辛かったけど、親として、会社の一員としてやるべきだと思ったし、休んだらやる人がいないので頑張りました。その点、夫が多くサポートしてくれたのも大きかったですね。会社でも家でもチームでやらないと上手くいかないので」
筆者も当時、王と同じチームで働く事が多かったので一緒に色々な仕事をしたが、大きく印象に残っているのは、王が決して「子供の事や時短勤務である事を言い訳にしない人である」という事。他人にも自分にも厳しいこの姿勢は尊敬に値した。
そうして、直ぐに勘を取り戻した王は再びD社のメイン担当として復帰し、それ以外にも大型プロジェクトにアサインされ、結果として成功を治めてきた。先日2019年度グッドデザイン賞を受賞した株式会社マイナビ様が提供する「農mers(ノウマーズ)」に関してもプロジェクトマネージャーとしてチームを牽引し、結果としてお客様に喜んで頂けるプロダクトを世に生み出した。
この頃、王と同じチームで働き、王の後任として受託開発部門 中国開発部門の責任者を務める陶(とう)は王についてこう語る。
「王さんは何事にも真剣に向き合っていく姿勢が本当に尊敬できます。上司でもお客さんでも、自分の意見をぶつけ合う勇気がある方ですね。その反面、チームメンバーに対しては優しく、温かく見守ってくれる方ですね。基本は部下に任せてくれるのですが、常に状況を把握してくれていて、適切なフォローをしてくれていました。部署を引き継いだ私も同じようなマネジメントを心がけています」
そうして王は与えられた仕事や期待に応える事で、社内で着実にチームリーダー、部長、ユニット副統括とステップアップを遂げ、その傍らしっかりと育児もこなし、娘も成長を遂げて歩いたり、お話ができるように成長した。
こうした王の当時の姿を菅澤はこう振り返る。
「復職後はエンジンが掛かりすぎていて少し心配したけど、それでも結果として特に問題なくプロジェクトが完了していったので、結果思考を持っていて、責任者としての適性があると思った」
これ以上に無い、賛辞の言葉である。
そして、当時の感を取り戻し、順風満帆に業務を楽しむ、王の中で新たな挑戦への思いが再燃した。
それは幼き頃に商店で思った「店長になりたい」という思いに通じる世界であり、「bravesoftの開発子会社である大連支社の責任者になりたい」という思いである。
新しいものへの果てしなき挑戦
“大連支社設立”に関しては2015年年末に時間を戻す。
年末に世界を流浪(2019年末はアメリカへ)する菅澤は、この年の年末を大連で過ごした。
その時の視察にて、“大連は可能性があるから、今後支社を作っていきたい”という話を菅澤から聞いた王は、それであれば自分が責任者になりたいと思った。
偶然にも夫の鄭が大連出身だったという背景もあり、もしそれが実現するなら責任者は王、技術部門は鄭が担当する形を実現でき、信頼のおける家族で会社を興す事ができる。
幼き頃、経営者になりたいと抱いた夢を叶える場はここであると感じ、娘がもう少し大きくなって、自分の管理能力がもう少し身についたら挑戦したいという思いをずっと王は抱えていた。
そうして前述の通り、復職から2年が経過し、管理能力の向上が物語るように役職もステップアップし、娘も成長した2019年のタイミングで、是非やらせて欲しいと菅澤に直訴した。
菅澤はそんな王に対して事業計画書を提出するよう課題を与えた。
王は通常業務と育児の傍ら、事業計画書を作成して菅澤に提出したが、何度もやり直し指示を受けた。「資料を作ることに何の意味があるのか」「やりたいことは何なのか」徹底的に問い詰められた。菅澤の要求は厳しかったが、その分、王は経営が厳しいものである事を学んだ
「経営全般の知識や、資金調達やキャッシュフローなどのシミュレーション、更には採用が上手くいかなかった際の想定など、本当に色々な考えが必要で、本当に勉強になりました」
そうして幾度と打ち合わせを重ね、bravesoftの経理部門の責任者・監査役との打ち合わせも行い、2019年12月の幹部会議と、全社発表で承認を得て、正式に2020年の大連支社の設立が決定。
勿論、総経理は王が就任するが、技術部門の責任者(CTO)に関しても前述の通り鄭が就任する。この大連支社設立が具体化に向けたタイミングで、鄭もbravesoftに入社していた。
そうして大連拠点設立が決まった事で、もう1つ嬉しいエピソードがある。
王がメイン担当として10年間やり取りをしていたD社に正式に報告に伺った際、王と10年間一緒に仕事をしてきた先方の役員の方が「是非応援したい。うちの会社の大連の関連会社も紹介する」と快く送り出してくれただけではなく、仕事も紹介をしてくれたこと。
王の10年間続けてきた仕事がしっかりと評価された、最高のプレゼントであった。
そうして2020年2月現在、王は設立の準備を行っている。
書類や申請の準備はほぼ終えており、オフィスの場所ももう決まっている。
元々は4月からの始動を考えていたが、世界中で猛威を振るうコロナウイルスの影響で現在は少し作業が止まってしまっている状況の為、若干の後ろ倒しとなる見通し。
そして、大連支社は初年度からの黒字を目標を設定している。なかなか厳しい目標ではあるが、王はこう話す。
「厳しい目標だけど、どうせやるなら勿論成功したいので、頑張ります」
最後に
王が大連支社で実現したい事は色々ある。
まずは「開発だけではなく、上流工程も行う」ということ。ただの開発拠点という位置づけではなく、企画から一貫して行える開発会社を目指している。
そして「オフショアのイメージを改善していく」ということ。品質も勿論、実績を積み上げていき、最終的には大連の中でもbravesoftの名前を有名にしていきたい、という目標を掲げている。まだまだ王が叶えようとする夢は大きく、険しい道になるが、家族というチームで一丸となり、しっかりと結果を出してくれるであろう。
そんな王に対し、菅澤はこのような言葉でエールを送っている。
「10年間、bravesoftで戦ってきた真価を見せつけろ!」
最後に、子供に対してどのような教育観を持っているか、王に尋ねてみた所、王らしい意見が返ってきた。
「自分は子供の思いを尊重するし、干渉もしたくないので、“挑戦しなさい”とだけ教えている。その意識さえしっかり教えれば、何をしても上手くいくと思う」
家族と言えど多干渉にならず、お互いを尊重し合う理想の家族。
そんな3人は今春、日本から大連に移り、次の人生のストーリーを迎える。
3人で過ごす新居はもう決まっていて、もちろん新居の内装は王が決めたインテリアだ。
「bravesoftに入社して本当に良かったと思っています。仕事も案件も楽しいし、自分が自由で動けたし、やりたい事をやらせてもらえた会社はそうそう無いと思っています。成果を出せれば時短社員でも評価してくれるし、子育ても応援してくれる会社はそう無いと思うので、そんな人が安心して働く会社であって欲しいですね」
王の一冊
顧客対応の掟と極意153|本園明史
数年前に読んだ本ですが、お客さん対応についてあらゆる場面を書かれたので、今までのお客さん対応中でかなり参考になっています。 お客さん対応が苦手の方、悩んでいる方、経験が少ない方におすすめです。