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bravesoftの
プロフェッショナル社員

社員紹介vol.7 助川 なつき

助川の履歴書

助川なつき。誰からも好かれる彼女は周囲から「すけさん」という愛称で親しまれている。
  • 1983年8月 神奈川県横浜市にて生誕
  • 1990年4月 金沢小学校 入学
  • 1996年4月 金沢中学校 入学
  • 1999年4月 金沢高校 入学
  • 2002年4月 東京メディアアカデミー 入学
    スタイリスト個人事務所「アンジュ」アルバイト 開始
  • 2004年4月 同社に正社員として入社
  • 2012年11月 bravesoft株式会社入社 BP(バックオフィス部門)配属
  • 2014年1月 営業専門部署 配属 セールス兼ディレクターとして従事
  • 2015年7月 受託開発部署 配属 ディレクターとして従事
  • 2016年12月 2016年下期M.B.P(Most Braver Person)選出
  • 2017年10月 チーフディレクター就任
  • 2019年1月 クリエイティブ事業部 配属
  • 2019年6月 2019年上期M.B.P(Most Braver Person)選出

助川の流儀

はじめに

2020年現在、27年間の歴史を持つ「Jリーグ」において過去に2度、年間最優秀選手に選出されたプレイヤーが存在する。
その選手こそ日本代表で長年エースナンバー背番号10番を背負った中村俊輔選手であり、2000年に受賞し、海外移籍を経て古巣の横浜Fマリノスに復帰しチームを躍進させて、2013年史上初の2度目の受賞を達成した。誰もが納得する、妥当な結果であった。

bravesoftにおいても年間に2度表彰する「M.B.P(Most braver Person)」に2度選出された社員が存在する。
助川なつき。男性社員が7割を占めるbravesoftにおいて、数少ない女性ディレクターであり、これまでbravesoftの大型プロジェクトにおいて営業、ディレクション、更にはプロジェクト全体のマネジメントなどを行い、サービスを成功させてきた。

個性の強い社員が多いbravesoftにおいて、しっかりと成果にコミットし、圧倒的な存在感を手にして、事業部に、会社に、そして何よりクライアント(お客様)と、エンドユーザー(アプリを使用する方々)に対して全幅の信頼を得た結果、助川が2度目のMBPに選出された際、誰もが納得し、妥当な結果であると感じた。

そんな助川ではあるが、bravesoft入社前は全くの異業種で働いており、IT業界とは程遠い世界で働いていて、最初はバックオフィスのアルバイトとして入社したが、そんな助川が会社を代表するトップクラスのエースディレクターにまで成長した軌跡を本人のインタビューと一緒に働く多くの社員にヒアリングした内容を紹介したい。

MBP表彰の瞬間をとらえた写真。そんなトップを走り続ける助川の仕事の流儀を紹介したい。

海外・学童・部活動etc… 友達に溢れた学生時代

1983年、神奈川県横浜市にて助川は生を受けた。家族構成は電力系のエンジニアである父、小学校の先生をしている母、そして中の良い弟の4人家族。小さい頃はとても元気な少女で、下の弟とも「喧嘩するほど仲が良い」という言葉の通り、毎日のように喧嘩をしていた。また、ピアノに水泳・テニス・ゴルフと様々な習い事をしており、当時習い事をしていた思い出をこう振り返る。

「ピアノの発表会が1年に1回あった時に、発表会前に譜面を頑張って暗記して弾いてた事をふんわり覚えているくらいかな(笑)」

好奇心が旺盛で、一つことを極めるより、色々な習い事にチャレンジしてみることが楽しかった。

小学校は金沢小学校へ入学したが。途中、家の引越しの関係で文庫小学校にも通った。
どちらの小学校でも友達が多く、小学校時代の思い出は「とにかくたくさんの友達と遊んだこと」。両親が共働きであったため、放課後は学童保育所に通い、おやつを食べて、同じ学童に通っていた友達とたくさん遊び、18時に両親の帰宅に合わせて家に帰る。学童は第二の学校みたいで楽しかった。

そして助川家は定期的に海外旅行に行く、そんな素敵な家庭だった。
カナダ・ニューカレドニア・バリなど、幼少期より色々な国に旅行に行った。
旅行先で一番楽しかった事は、やはり「友達と遊ぶこと」であり、旅行先の現地ですぐ友達を作るのだ。もともと人と打ち解けるのは得意だった助川は、共通のテーマがあればすぐに友達になる事ができた。

「プールやホテルのフロントとかレストランとかで、もちろん言葉はわからないんだけど“一緒に遊ぼうよ”という気持ちを全力で表現して、いつも自然と仲良くなっていましたね」

文化や言葉を超えたコミュニケーションスキル、意思疎通の大切さを学んだのは、この海外旅行での世界中の友達との交流がきっかけだったのかもしれない。

そうして楽しかった小学校生活を終えて中学校に入学。
中学校ではソフトボール部に所属し、ポジションはサードを担当した。

「私がソフトボール部に入部した時は人数がギリギリで、部活が存続の危機だったんですよね。だから1個上の先輩が勧誘を頑張っていて、それに打たれて入部しました」

1個上の先輩方は、助川をとても可愛がってくれたので、とても仲良くなり、先輩後輩の垣根ものない関係ない友達みたいな間柄で楽しい時間を過ごした。そうして放課後は毎日、白球を追いかける日々を過ごし、中学3年生の時には副部長に任命。

「周りからの推薦で。自分は全然副部長になる器でもないと思ってたんですけどね(笑)」

部活動のチームメイト以外にも、中学校時代の助川は良い友達に恵まれた。
それは小学校時代からの友達や、前年に同じクラスだった友達、別のクラスの友達の友達…多くの友人が助川の周りに集まり、その繋がりは今も続いている。

「あまり自分から積極的に友達を作るタイプではないですが、一度仲良くなるとずっと続くかな」

その言葉や、中学時代のエピソードから、助川の人との繋がりを大切にするマインドが伝わってきた。

高校は第一志望である、地元の金沢高校へ。中学時代は文武両道を貫き、勉強も怠らなかったことが身を結んだ。
部活はバトン部に入部。バトンをやるというよりかはダンス部に近く、部活仲間はお洒落な女の子ばかりだった。バトン部も高校卒業まで3年間続けた。一つを決めたら辞めずに続けるというのは中学の時から変わっていない。

高校は自由な校風で、校則という校則がなかった。そのため中学時代とは一変、勉強はサボり気味になり、お洒落を楽しんだり友達との遊びに夢中になっていった。
高校の同級生だけでなく、中学校の友達、小学校の友達など、昔からの友達とも夏休みなどの大型連休のたびによく集まって遊んだ。

部活をしていたためバイトはしていなかったが夏休みは海の家、冬休みは工場で短期バイトをし、貯めたお金をみんなで遊ぶ費用やお洒落にあてていた。
バトン部の仲間や同級生の影響もあり、流行にはとても敏感だった。当時流行していたファッション雑誌の影響で、ファッションやアクセサリー、カルチャーに影響を受けてチャレンジする、そんなどこにでもいるような普通の高校生だった。

終電で帰れないのが当たり前の生活のスタイリスト時代

そうしてファッションに興味を持った助川は、ファッションに対する興味が深くなり、高校卒業の進路に関してこのような思いが強くなった。

「将来はスタイリストになりたい」

そうして高校卒業後の進路としては服飾系の専門学校を志望した。
学校は恵比寿にあり、横浜市金沢区から一気に都会へと進出した。学校にはお洒落で可愛い女の子がいっぱいいて、とても刺激になった。

また、専門学校への進学と同時にスタイリストの個人事務所でアシスタントのアルバイトをはじめていた。
アルバイトのきっかけは、スタイリストになりたいという夢を両親に伝えた際、たまたま父親の繋がりでスタイリストの方がいて、かけあってもらったことがチャンスに繋がった。
高校を卒業する3ヶ月前からスタイリスト事務所で働きはじめ、アシスタントとして撮影現場に行ったりしていた。

専門学校時代は好きな服飾の勉強ができて楽しかった一方で、アシスタントの仕事と学校との両立に苦労した。
専門学校2年目のときには、事務所の先輩が全員辞めてしまうというアクシデントが発生し、急に忙しくなった。事務所には代表と助川の2人のため、ほぼ学校には行けず、アシスタントの仕事に没頭する日々を送った。

「土日があるような職業じゃなかったので、まあ忙しかったなという印象ですね(笑)」

苦笑しながら当時の思い出を振り返ったが、まだ学生でそのような厳しい状況は過酷であったと推察されるが、一度決めた事はやり続けるのが助川。それは学生の部活動時代から変わらない。そうして結果としてその事務所にそのまま就職し、以後8年間務めることとなる。
辞められる状況で無かったという点はありつつも、その事務所にアルバイトではなく正社員として就職を決めた理由を聞いてみると明確な答えが返ってきた。

「その師匠は芸能業界のスタイリストなんですが、仕事の幅が広かったんですね。忙しかったですけど、色々勉強もできるし、成長できたらいいなと思ってそこに決めました」

仕事内容は芸能人のファッションコーディネート全般で、雑誌やCM、ドラマ、TV収録や記者会見など、あらゆる現場を経験した。入社してからは先輩がいなかったので、なんでも自分で考え行動しなければならない状況は過酷であり、力にもなった。

スタイリストとして行う芸能人・タレントの方との仕事ではとにかく「細やかな気配り」が必要とされた。
言い回しだったり、配慮であったり、細かいところに気を使わなくてはならなかった。
また、空気を読むことも非常に重要であり、結果としてこの際に習得した細かな「気配り」は後に助川のコミュニケーション能力の礎となった。

仕事は非常に忙しく、終電や徹夜、しばらく家に帰れないなどの番組ADさながらの忙しさは日常茶飯事。本当に忙しい時は、友達を呼んで現場で一緒に作業など仕事を手伝ってもらうこともあった。3ヶ月間休みが無いなど忙しさを極めていたが、当の本人はそんなに意識していなかった。

「まあ仕事ってそんなもんだと思ってましたね(笑)」

芸能人の方と一緒に仕事をしている中で、一つの作品ができて、それが実際に書店に並んだり、そういったものが目に見えた時、やってよかったなと心から感じる事ができた。
「みんなで1つのことを成し遂げる楽しさ」。これが仕事を行う上での大きなエネルギー源となっていた。

しかし、「好き」から入ったスタイリストの仕事を8年間続けてきたある日、ふと、「少し新しい世界を見てみたい」という思いが芽生えた。今の仕事には十分満足していて、特に悩みなどもなかったが、助川の根元にある好奇心が新しい一歩を突き動かした。

スタイリスト出身の助川。趣味の海外旅行のお土産も「センスが良い」と社内で好評。

Excelの使い方も分からない状況から4,000万円の大型受注へ

退職に関して相談した際、事務所のエース的ポジションで頼りにされていた助川は当然のごとく強く引き止められた。しかし「長く働いてくれたし、たくさん助けてもらったから助川の次にやりたいことを応援したい」と背中を押してもらい、円満に退職を決めた。

次は同じ業種(アパレル)ではなく、違う職種にチャレンジしてみたいと考え、色々な職種にエントリーシートを出したが、アパレル以外の知識・実績がないため全く書類選考に通過できなかった。

「どんな職種でも“まずはパソコン出来なきゃまずいよね”と思って、ハローワークに通いました」

ハローワークの職業訓練校ではMicrosoftのExcel・Wordなど、パソコンの基礎から学んだ。
並行し就職活動を行っていたが、エントリーシートがどこも通らなかった経験から「受かればどこでもいい」という気合いで様々な会社に毎日エントリーシートを送った。

そんな中、未経験OKという事で、ある会社で書類が通った。それがbravesoftであった。募集職種は経理サポート。

「とりあえず“エントリーシートを出して通ったところ”という印象で、bravesoftのことを全く知らなかった」

まずはバックオフィスの責任者との1次面接を通過し、2次面接はbravevsoft代表取締役CEO/CTOの菅澤英司。菅澤との面接で「どんなアプリが好きなの?」と聞かれた事はまだ印象に残っている。

「当時まだガラケーを使用していたため、アプリをインストールすらしたこと無かったので、苦し紛れに、 “LINEっていうアプリがある事は知っています”と答えましたね(笑)」

そのくらい当時はITに疎かった助川ではあったが、最終面接を経て内定を勝ち取った。
面接当時の様子を代表の菅澤に聞いてみると、以下のような回答が返ってきた。

「スタイリストという異なる業界でバリバリ働いてきたというのは、変化が激しくスピード感が求められるIT業界でもやってけるのではと思った。あと何より当時1次面接の担当が“ぜひこの子を育てたい”と強く希望していたんだよね」

そうして晴れて2012年11月、助川はbravesoftにアルバイトとして入社した。
最初の配属はバックオフィス部門での総務サポート。電話応対や、経理サポートや書類の整理などを行った。そんな入社当初の様子を同期である取締役の星に聞いてみた。

「当時の『ベンチャー開発会社らしい』社内に似つかわしくない人がいると思ったらやはりアパレル業界出身。そして私と同じくIT業界未経験。ファッションやカルチャーのことで話が合う社内唯一の人でした。そう、つまりイケてる人」

会社で働くこと自体がはじめてだったため、土日は休み、定時があるなど、全てが新鮮だった。

また、自席近くの人とコミュニケーションを取る際、直接話すのではなく「チャットでメッセージを送る」という文化など、IT企業とスタイリストとして働いていた前職との環境は違う文化が多く、新鮮であった。

最初に任せられた仕事は名刺の束のデータ入力だった。
最初は経験が無く苦労したが、ひたすら周りの人に話を聞きながら勉強していった毎日だった。「自分で考えて、どうにかしないといけない」というのが前職の時からの心構えだったので、bravesoftでもとにかく全ての仕事に挑戦し、吸収していった。

そうして少しずつ業務に慣れ、業務を覚えつつあったタイミングで、菅澤より会社の方針や売り上げ戦略など来期のビジョン発表を直接聞く機会があった。それを聞いた時、会社の一員になるのであれば、会社を伸ばしていくためにも、自分も実際に目に見える形で貢献していきたいという想いが込み上げてきて、その後、上長との面談で開口一番、

「営業に興味があります」

と勇気を出して伝えた。そして、翌日、営業部への異動が決定する。

営業部に異動した最初は見積書の作成や営業事務などを行なった。
営業部は当時、上司と助川の2人だったが、上司と商談に何度か同行経験を繰り返してく中で、助川なりに営業における方法論・成功論を取得し、そのタイミングでその想いを表現できる場が訪れる。大きなコンペで発表するチャンスを掴んだのだ。連日企画を練って、初のコンペに向け入念な準備をした。

「自分一人で全部解決するのではなく、会社のいろんな人に助言をもらったり、助けてもらってました。周りに恵まれてた気がします」

と持ち前のコミュニケーション力を発揮し、スムーズに仕事を進めた。そして、見事、コンペを勝ち取った。

「ほぼPC未経験で入ってきた彼女は、とにかく早く戦力になるために必死だった。ある日、ふと目をやると、彼女はExcelをにらみながら、勢いよく電卓を叩き始めた。周りの先輩が慌てて止めて、Excelの使い方を教えた…それから半年もしない頃だったか、いきなり4,000万円の案件を受注した」

と、代表の菅澤は助川の成長の様子を懐かしく楽しそうに振り返る。

「相手の立場に立って考えるべき」その言葉から、いかにコミュニケーションを大切にしてきたかが伺える。

大型プロジェクトの受注〜2度のM.B.P受賞

徐々に助川はディレクター業務も行うようになっていった。会社からディレクターに任命されたわけではなく、営業で受注して終わりと言うのではなく、お客様のサービスを最後まで責任持ってできることは挑戦していく形でディレクションにも携わっていった。

その時、外注をしてたデザイナーに「それ助川さんがやる業務の範囲超えてるよ。営業だからそこは開発の人に任せたらいいのに…」と驚かれたことはよく覚えている。
周りの人が驚く位、助川は決して業務に範囲を限定せず、自らどんどん動いていった。

大手アミューズメント施設「マルハン」の公式アプリを担当した時は、とにかくスケジュールがタイトで、規模も大きかったので、アルバイトとして働くインターンメンバーを含め、自分が見る人数が多かったためプロジェクト全体のマネジメントが大変だった。

今はサービスを終了している音声アフレコができるプロダクト「coepy」を担当した際は、初めて協業のサービスで助川がプロジェクトマネージャーとなった。リニューアルの際のデータ移行では、技術的知識が浅かったため、懸念すべきことが洗い出せず苦戦した場面もあった。また、開発部分のディレクションも苦労する部分が多く、対応に追われた。しかしながら、画面のUIを考えたり、運用しながら色々な変更をしたり、この案件を通して学んだ技術的なことが多々あり、PMとして助川を大きく成長させた。

そうして数々の功績を残してきた助川は2016年に下期M.B.Pに選出されたが、本人は謙虚にこう振り返る。

「なんで私なのか分からなかったですね…」

当時も今もbravesoftは完全実力主義。過去に紹介した清田も入社2ヶ月で事業部長になっているので、実力がある社員は直ぐにでも高いハードル、広い裁量を与えられる。

そうして目に見える形で評価を得た助川はチーフディレクターにも専任され、後輩社員への指導など、業務の幅を更に広げていって、その頃には会社にとって無くてはならない存在となっていた。

そんな最中、「マルハン」案件の実績・対応が評価され、紹介を受けて世界でも有名なアミューズメント業界最大手「SEGA」のコンペに大手SIer様と共に挑み、見事受注を獲得した。

この案件では非常に高い品質が求められ、細かくドキュメントを作成する必要があり、それには膨大な時間と苦労を要した。納品するまでは細かいテストで残業が多かったが決して手を抜くことはせず、納品まで完遂させた。結果、お客様からも会う度に感謝の言葉をもらうほど、高い評価と信頼に繋がった。

そうして2019年、上記サービス「SEGAプラトン」のリリースを終えた際、2019年上期M.B.Pに再度、助川は選出された。冒頭でも触れたが、助川が誰よりも責任感を持ち、このプロジェクトを進行していたのかを当時bravesoftにいた誰もが知っていたので、異を唱える社員は一人もいない。順当であり、妥当な選出であり、多くの拍手が受賞会場であった伊豆大島の宴会ルームで鳴り響いた。

そして2020年現在、直近で担当したプロジェクトはSEGAトイズ様の「Amazing MEIJIN Channel」。

「企画段階から1からつくり上げていくサービスだったので、どのような方向性で行うか、先方と何度も議論しました。」

実際、開発にはいくつもの壁があった。参考文献を見つけることも難しく、トライ&エラーで作りあげていった。カメラの機能部分は何回テストをやってもうまくいかず、テスト期間はみんな定時で上がれない日々が続いた。初めてトライすることが多く、大変ではあったがみんなで色々考え、挑戦し、チームワークで一つものを作りきれたことが嬉しかった、と語る。

「私は新規よりも既存のお客様だったり、お客様からのご紹介だったりの場合が多いですね。あとは案件でいうと、何人かの社員が自分の専任チームメンバーになってもらっているので、その人たちの長期的な成長を踏まえたマネジメントが増えてきているかなと思います」

責任を持って働くことこそが重要

bravesoftに入社した当時は、全くアプリのことを知らなかった助川だが、様々な案件に携わる中で、営業から企画から、UIデザイン、そして開発のことまでもわかるようになり、気づけば、チーフディレクターとしてチームメンバーを束ねる立場にまで成長した。

そんな助川は謙虚であり、自分から多く功績を語るタイプでは無いので、一緒に働く社員から助川に対する印象をヒアリングしたので、その声を紹介したい。

「とにかく関わっている人からの評価がよく、社内外からの信頼を得ている。知識よりは動物的直感で行動しているように感じるが、それで結果も信頼も得ているということは、プロジェクト成功に大切なことは行動する勇気と、愛嬌であるということを教えてくれる」

代表取締役 CEO 菅澤英司

「ハードワークな状況下でも挑戦的であり、クライアントや周囲のために仕事をやりきれる責任感の強い人。地頭が良く視野が広いので色々な企画や会話ができつつも、やわらかい雰囲気で周囲を巻き込める人。こういうスペックの人は世の中にそう居ないと思います、とても器用だし実行力があるチーフディレクター」

取締役 / コーポレートカルチャー本部長 星達也

「どんなことでも言い訳はしないで確実にやり切るひと」

取締役CDO / クリエイティブ本部・タレント本部統括 青木 意芽滋

「周りからすごいとは聞いていたが、一緒に仕事をするまでは、“普通のお姉さんだなぁ”という印象しかありませんでしたが、一緒に仕事をしてみると、細かいことによく気づき、指示も的確。開発のDB関連のことなどもブリッジエンジニアと同じ位熟知しているし、日本人エンジニアの抜けにすら気付けるという凄さ。元スタイリストや元経理アルバイトと聞いていると、どれだけの努力をこの人はしたんだろうかといつも思う。そして、助川さんと一緒に仕事をすると、人柄や仕事ぶりを見てみんな助川さんのことを好きになります」

デザイナーA

「助川さんと言えば、“責任感が強い”。”褒め上手”、”人を動かすのがうまい”、”優しい”、”よく海外旅行に行く”、”ファッション好き”…他にも色々ありますがそんな人です。言葉の通じない海外のエンジニアや、経験の浅い新人に対しても絶対に怒らずにちゃんとコミュニケーションをとって、うまくその人たちを動かしてしたのはすごいと思いましたね」

アプリエンジニアT

これほどまで周囲から信頼のあるディレクターはそういないであろう。
助川が人生を通して貫いてきたこと、「1つのことを決めたら必ず最後までやり遂げる」、そして「人との繋がりを何よりも大切にする」。
この2つが、現在の輝かしい実績と信頼に繋がっている。

最後に、助川が仕事で大切にしていることを聞いて、今回の手記の結びとさせて頂く。

「仕事を行う上で大切にしていることは、責任感ですかね。自分が目指していく方向について、今みたいに色々な案件を多く経験しノウハウをもっともっと持てていくとともに、チームメンバーと協力して、もっとお客様に満足していただけるようなサービスを一緒に作っていけたらいいなと思います。」

「挑戦を楽しむ」ブレイブスピリッツにも通じるその信念を胸に、大切な仲間達と共にさらなる高みを目指していく。

記)

助川の一冊

日常のリアルなひとこと ためぐち英語 Dialog(日本語版) | Thomas K.Fisher

ネイティブが使ってるフレーズを日常会話から学ぶ事ができます。友達としゃべるような、気軽で等身大の英語が使われています。短いフレーズや、例えが面白い言い方など少しシャレた使い回しを知る事ができます。海外旅行が趣味なので、英語を勉強したいなと思って読み始めました。わかりやすくて面白いけど、カジュアルな言葉遣いになるので使うシーンは慎重に選んで下さいね!(笑)